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三代 血族 女性 家臣 姻戚

三 代
【真田幸隆】 幸綱,弾正忠,一徳斎
1513-1574
信州豪族海野氏の嫡流である海野棟綱の娘婿(棟綱の子とする系図もある)。
武田信玄に仕官して信州先方衆の主力となる。
その智謀は武田家中でも髄一を誇り、信玄が攻略に失敗した信濃戸石城も、謀略 で簡単に落城させて見せた。 戦国三弾正の1人で「攻め弾正」の異名をとる。
【真田昌幸】 安房守,武藤喜兵衛
1547-1611
真田幸隆の三男。
兄・信綱の討死により家督継承。
主家であった武田家滅亡後も、 上杉・北条・豊臣・徳川との巧みな外交戦略で生き残り、 上田・沼田の支配を確立。
関ヶ原の戦いで西軍に味方したため、高野山配流。
【真田信幸】 伊豆守,信之
1566-1658
真田昌幸の長男。
徳川家に出仕し、徳川家の重臣・本多忠勝の娘を 娶る。この縁で、関ヶ原合戦では昌幸・幸村と袂 を分かち、東軍に属して勝利。戦後、昌幸・幸村 の助命に奔走した。
のち、信濃松代の初代藩主となり、真田家の家名を後世に存続させた。
【真田信繁】 左衛門佐,幸村
1567-1615
真田昌幸の次男。
関ヶ原合戦後、九度山に蟄居していたが、豊臣家 の招きで大坂入城。夏の陣では大坂城の弱点とさ れた三の丸南側に出城を築いて徳川軍を散々に打 ち負かした。
冬の陣でも徳川本陣に迫る奮戦を見せ、「真田日本一の兵」と賞賛された。

※幸隆を棟綱の子(次男)としている系図もある。
※矢沢系図(特に頼康・頼貞・頼邦)はやや曖昧。

一 族
【矢沢頼綱】 薩摩守,綱頼,頼幸
1518-1597
真田幸隆の弟。
初め出家していたが、京都鞍馬にいたが 還俗して武田信玄に仕え、幸隆と共に信州先方衆として活躍。
のちに甥の真田昌幸に属し、一族の重鎮として昌幸をよく補佐した。 北条家との沼田攻防戦では沼田城代を務め、見事に北条家の軍勢を撃退している。
【常田隆家】 出羽守,隆永
1520-1563
真田幸隆の弟。武田家に仕える。
【鎌原幸定】 1523-1600? 真田幸隆の末弟?
鎌原氏は海野氏の分流。
【真田信綱】 源太左衛門尉
1537-1575
真田幸隆の嫡男。武田家に仕える。
父の隠居後、家督を継ぐ。 信州先方衆として各地を歴戦し、勇名を馳せた。 長篠合戦では、3尺3寸の太刀を振るって次々と 敵兵をなぎ倒し、馬防柵を打ち破る奮戦を見せた が、織田家鉄砲隊の銃弾を受けて討死した。
【真田昌輝】 兵部丞
1543-1575
真田幸隆の次男。昌幸の兄。
長兄の信綱とともに、信州先方衆の将として活躍。
信玄の駿河侵攻以来、主要な合戦のほとんどに参陣して功をあげた。
信玄が没したのち、勝頼に従って長篠合戦に出陣。兄・ 信綱とともに奮闘したが、乱戦の中で討死した。
【真田信尹】 壱岐守,加津野信昌
1547-1631
真田幸隆の四男。徳川家に仕える。
妻は武田氏の名将馬場信房の娘。
【金井高勝】 宮内介
?-1606
真田幸隆の五男。
子孫は帰農。
【矢沢頼康】 但馬守,頼貞
1553-?
矢沢頼綱の嫡男。
【真田信正】 甚三郎
?-?
真田昌輝の嫡男。
子孫は越前松平氏に仕え、越前真田家として存続。
【真田昌親】 内匠
1583-1632
真田昌幸の三男。信幸・信繁の弟。
関ヶ原の役では、兄・信幸に従い徳川勢につく。
【真田幸政】 ?-? 真田信尹の子。父と共に徳川に仕え、旗本。
真田昌幸の娘を妻にしている。
【真田信勝】 左馬介
?-?
真田昌幸の四男。
慶長14年9月、江戸において近江膳所城主戸田氏鉄の弟勝興と喧嘩、斬殺されたとも、相手を斬って逐電したともいう。
【真田信吉】 河内守・孫六郎
1593-1634
真田信幸の嫡男。
信幸の松代転封後、沼田領を譲られ2代藩主となる。
大坂の陣では父に代わり弟・信政と共に参陣。
【真田信政】 内記
1597-1658
真田信幸の次男。
大坂の陣では兄・信吉と共に参陣。 信政の嫡男・熊之助早世により沼田藩4代藩主。
父・信幸隠居により松代藩2代藩主に転任。
【真田幸昌】 大助
1602-16142
真田信繁の長男。母は大谷吉継の娘。
九度山に生まれ、12歳のときに父・幸村とともに大坂入城。大坂夏の陣で豊臣秀頼に殉ずる。
【片倉守信】 沖之丞・真田大八
1612-1670
真田信繁の次男。
大坂夏の陣の直前、姉・阿梅らと共に片倉重長に保護される。

女 性
【山手殿】 寒松院
?-1613
真田昌幸正室。信幸・信繁の生母。
京の公家・菊亭晴季(または正親町氏、または豊臣家臣・宇多頼忠)の娘または養女。
武田信玄の養女として昌幸に嫁いできたとも。
【村松殿】 ?-? 真田家臣・小山田茂誠室。真田昌幸の長女。信幸・信繁の姉。
【小松殿】 大蓮院
1572-1620
真田信幸夫人。徳川家重臣・本多忠勝の娘で、徳川家康の養女として信幸に嫁ぐ。
【竹林院】 ?-1649
安岐?
真田信繁の正室。大谷吉継の娘。
真田大助・大八らの母。
大坂の陣の後は、娘おかねの元で暮らした。
【阿梅】 1604-1681 真田信繁の三女。
大坂夏の陣のとき、弟・大八と共に片倉家に託される。 のち、片倉小十郎重長の後妻となり、頼ってきた幸村の遺臣たちを保護した。
宮城県白石市田町当信寺に、大八とともに墓がある。
【あぐり】 ?-? 真田信繁の三女。蒲生卿喜室。
【おかね】 ?-? 真田信繁の六女。阿梅・大八と共に片倉家に保護され、のち石川貞清室。
【阿菖蒲】 ?-1664 真田信繁の七女。阿梅・大八と共に片倉家に保護され、のち田村定広室。

家 臣
【海野幸光】 長門守,羽尾幸光
?-1581
海野棟綱没後、その名跡を継承して海野氏を名乗る。 真田幸隆・昌幸に仕え、岩櫃城代。 弟の輝幸が海野氏総領を称して不穏な動きを見せると、 謀反の疑いありとして弟と共に昌幸の攻撃を受け自害。
【海野輝幸】 能登守,羽尾輝幸
?-1581
兄・幸光と共に真田氏に仕え、沼田城代。 塚原ト伝に師事し神道流の免許皆伝。 海野氏総領を称して不穏な動きを見せると、 謀反の疑いありとして兄と共に昌幸の攻撃を受け自害。
【池田重安】 佐渡守
?-?
斎藤憲広に仕えていたが真田幸隆の調略により寝返る。 関ヶ原では信幸に従う。
【河原隆正】 ?-? 真田幸隆〜昌幸の家臣。
妹が真田幸隆に嫁ぎ、昌幸を産んでいる。
河原氏は譜代の家臣の家柄。
【青木某】 半左衛門
?-?
昌幸の家臣。 関ヶ原合戦後、昌幸に従い高野山へ。
【小川祐正】 可遊斎,赤松孫五郎
?-?
越後上杉に従い小川城代。 矢沢頼綱に攻められ押し返すも、真田昌幸の援軍に破れて降伏。 その後、名胡桃城の鈴木重則とともに、北条氏直の軍勢を撃退した。 1582(天正10)年頃、北条に破れて浪人、越後へ?
【鈴木重則】 主水
?-1589
名胡桃城代。 北条家に名胡桃城を乗っ取られると、不覚を恥じて正覚寺にて自害。 これが秀吉の小田原攻めの契機となる。
【鈴木忠重】 右近
1574-1658
鈴木重則の嫡男。真田信幸に仕える。
【白川某】 勘解由
?-?
真田信綱の臣。兄弟で長篠合戦に参陣。
信綱討死に際して、信綱の首を陣羽織に包み、鎧に入れて 真田郷に持ち帰った。 首は信綱寺の場所に埋葬し、白川兄弟は殉死。
【出浦盛清】 対馬守
?-1623
信濃村上氏の支族と伝わる。
初め武田信玄に仕え、透波頭を務める。
武田滅亡後、海津城に入った森長可に仕えた。 本能寺の変後、森長可が信濃を退くにあたり、 離反者が相次ぐ中で最後まで森長可を見送った。
その後、真田昌幸に仕え、のち信幸に属す。
子の幸吉は真田信幸の家老になっている。
【横谷幸重】 左近
?-?
真田譜代の臣。
【横谷重氏】 ?-1614 横谷幸重の子。信繁に従い大坂の陣で討死。
【小山田茂誠】 壱岐守
?-?
武田の臣であった父・昌行が高遠城で討死したのち、真田昌幸を頼って臣となる。 のち、昌幸の長女・村松殿を娶る。
【鎌原重春】 ?-? 真田昌幸の家臣。
真田信尹の娘を昌幸の養女として娶る。
鎌原氏は海野(真田)氏の庶流。
【中山某】 右衛門,安芸守
?-?
中山城主。矢沢頼綱に仕える。
本能寺の変後、北条氏の上野侵攻を受けて討死。
【日置尹俊】
(へき・ただとし)
五右衛門
?-?
真田昌幸の家臣。
三河の生まれ。武田遺臣? 武田家滅亡後、北条・徳川との外交の使者となる。 神川合戦で味方と間違えて敵の軍勢の前を通り過ぎピンチ(笑)。 戦後拝領した知行地にあった遍照寺を再建(宗安寺と改名)。 のち沼田藩で大小性組頭として150石取り。
【穴山某】 小助
?-?
講談本における真田十勇士の1人。 真田十勇士は創作だが、穴山小助は、その娘が真田信繁の三女・阿梅に従って奥州白石に来たとの記録から、実在とされる。

■昌幸時代の真田家家臣団概要

●譜代(幸隆・信綱の代からの家臣)
矢沢・常田・河原・春原・宮下・深井・矢野・丸山

●旧武田給人
大熊・浦野・海野鎌原・池田

●吾妻衆
湯本・折田・唐沢・一場

●沼田衆
中沢・森下・田村

●寄騎衆(沼田攻略の際につけられた寄騎)
藤田・金子・恩田・渡辺・発地

●小県郡土豪(小県郡統一で臣従)
禰津望月・室賀・出浦・丸子

※『人物叢書・真田昌幸』(吉川弘文館刊)を参考に作成。
青字は滋野氏系(真田氏と同族)

姻 戚
【菊亭晴季】 右大臣,今出川晴季
1539-1617
京の公家。秀吉の関白就任を斡旋した人物。
真田昌幸の正室・山手殿の父親とされるが異説多く不明。
【保科正光】 ?-? 真田昌幸の娘婿。
武田信玄の家臣。武田家滅亡後は徳川家に従属。
伊那群高遠を領し、3万石。
【宇田頼次】 河内守,石田刑部少輔
?〜1600
真田昌幸の五女の婿。大和・河内の大名、宇田頼忠(あるいは頼忠の兄・尾藤知定)の子。
妹(頼忠の娘?)が石田三成に嫁いだため、三成の猶子として石田刑部少輔と称す。
【本多忠勝】 平八郎
1548-1610
徳川家康の家臣。徳川四天王の1人に数えられる。
忠勝の娘(小松殿)が、家康の養女として真田信幸に嫁いだことから、信幸と懇意。 関ヶ原の戦後処理では、家康に対して真田昌幸・信繁の助命嘆願をしている。
【大谷吉継】 刑部少輔,吉隆
1559-1600
豊臣秀吉の小姓から出世、越前敦賀5万石。
吉継の娘が、真田信繁に嫁ぎ、大助らを生んでいる。
【滝川一積】 三九郎
?-?
徳川幕府使番。滝川一益の孫。
真田昌幸の娘を妻に娶り(?)、真田信繁の4女・あぐりを養女にしている。 あぐりを三春城主・蒲生源左衛門郷喜に 娶らせようとしたのを幕府より責められて追放されている。
【妻木頼照】 彦右衛門,頼熊,重直
?-?
真田昌幸の六女の婿。美濃妻木城主。
徳川政権下では勘定奉行などを勤めた。

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